日野郡のたたらの歴史

たたら研究会員・郷土史研究家 故 影山 猛 先生による論説


概要

日本には砂鉄を原料とする鑪(たたら)と呼ばれる伝統的製鉄法が存在しました。たたらとは、本来火勢強化のための足踏み送風機の鞴(ふいご)を意味しましたが、その後砂鉄を溶かす炉全体、ついで付属設備一切を総称するようになりました。宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」がイメージする世界は、これが基になっています。

 

ところで、日野郡ではいつ頃からたたら製鉄が始められたのでしょうか。大正 15年(1926)年に刊行された『日野郡史』は「延喜式主計帳伯耆国貢輸中、鍬鉄あるは主として本郡産ならん。」とその起源の古さに言及し、さらに「地方の諺(ことわざ)として今に残れる”百日の照りを見て野鑪をうつ。”といへる野鑪のあと、太古以来のもの本郡全面にわたり。所々に大鉄塊の放棄せられたるものゝ地上に露出せるもの等頗(すこぶ)る多く」・・・と紹介しています。 ※延喜式(えんぎしき)927年に完成

 

また同書では、日野郡は貞享元禄の頃より、鳥取藩直営のお手山(官営の鉄工業)とされ、鉄問屋があり売買運搬を担っていました。天保安政の頃には鉄山取締役が設けられ、奥部は大宮村段塚家、口部は緒形家、近藤家がその任を果たしていた、と記載しています。真砂(まさ)と呼ばれる刃物生産に適した良質の砂鉄を産出した日野郡の鉄は、「印賀鋼(いんがはがね)」と呼ばれるブランド品として高く評価され、たたら製鉄は日野郡の基幹産業に成長していきます。

※鳥取藩のお手山/元禄7(1694)年から元禄11年 

 

明治17(1884)年当時の記録では、およそ600カ所で砂鉄採取が行われ、34カ所で製鋼・精錬が行われたとあります。当時の日野郡の総人口は3万1千人余りですが、計算上では郡民のおよそ3人に1人がたたら製鉄に関わっていたことになります。

 

しかし、近代以降のたたら製鉄は、景気の変動や政府の鉱業政策、低廉な洋鉄の普及で存亡の危機に瀕するようになり、第一次世界大戦の特需が終わる大正7(1918)年、最後の鉄山師近藤家の製鉄・精錬所(福岡山ほか3カ所)が操業をやめ、たたら製鉄の長い歴史に幕が引かれました。 

※現在、日野郡における「たたらの終焉」は、日南町吉鈩(よしだたら)が操業をしなくなった大正10(1921)年としています。


古代の製鉄

日南町では、阿毘縁菅沢線拡幅工事中に発見された5世紀初頭とみられる印賀6号墳の中から、27センチメートルの直刀が発見されたが分析の結果、原料鉄は外国産と判明した。一般に日野町の横穴墓などの古墳から古代の鉄製品が出土することが多い。

 

 西伯郡伯耆町では、国道181号線岸本バイパスの道路改良工事が計画され、平成 19年度には埋蔵文化財の発掘調査が実施された。そのうち特に伯耆町や坂長の第6遺跡からは、鍛冶工房遺跡から大量の鉄製品、鉄滓などが出土したが、この 遺跡は古代の会見郡営の官営工房であった可能性が高まった。

 

 平安時代の伯耆国鉄生産は9世紀に調として鉄鋌(てつてい)・鍬を出し、庸として鍬を中央に差し出した記録が延喜式にある。また1073年から20年間に東大寺封物として4340鋌 もの鉄を、全国の中で伯耆国のみ差し出していることが平安遺文にあることは、平安時代伯耆国は一大製鉄地であったことが窺われる。このことは、国道9号線の バイパス建設工事に伴う発掘で、大山北東部の東伯耆で22か所もの農具など生産する鍛冶遺跡が発見されたことも関連があると考えられる。

 


中世

 中世には赤目系砂鉄(褐色がった銑鉄生産に適する)を使用して銑鉄をつくり、鍛打により鍬・鎌などを造ったと推定されているが、また真砂砂鉄(黒色で鋼生産に適する)を選び、刀剣などの刃物を鍛造している。特に刀剣の原料として有名なものは、建長年代に印賀の阿太上山で古都文次郎信賢が造った印賀鋼が鋼の王とした、当時の鍛冶屋に重んじられたことがその頃の本に載せられている。この印賀鋼は江戸期の大阪鉄市場でも、根雨の鉄山師手嶋伊兵衛(松田屋)の手によって特に高価で売り出されていたことが近藤家文書に記されている。この印賀鋼は磁鉄鉱系の真砂砂鉄から製錬された鋼である。

 

  中世には日本刀の工匠として名高い会見郡出身の大原安網が現われている。安網は、これまでの直刀から反りをつけた現在の日本刀の創始者であるが『太平記』 には、源氏の宝刀「鬼切」(国宝)に作刀したことが記され、また安網の子真守(さねもり)が平家の名刀「抜丸山」(重文)の作者であるとしている。

 


近世(江戸時代)

 鳥取藩は元禄7年(1694)たたら全体を把握し運上銀を課するため鉄奉行、鉄山目付をおき御手山制度(たたらを藩営)をはじめたが、これによりたたらが衰微して来たので元禄11年(1698)にはこの制度は取り止めとなり、以後たたらの稼業は鉄山師の願書(請け文書)のみで許可されるようになった。

 

 鳥取藩は日野産鉄を米子に集め、為替金を交付して鉄買船に売渡す「海路為替回漕仕法」(寛政12年・1800年)、また鉄鋼銑江戸直回仕法(江戸回鉄御趣向/文化13年・1816年)、境鉄山融通会所の設置(天保6年・1835年)など、産鉄の流通や販売を促進する政策を進めている。

 

  江戸期に活躍した鉄山師達の氏名また鉄生産量については詳しい記録は見当たらないが、文化13年からの江戸直回仕法の記録(近藤家蔵)によれば、根雨手嶋 伊兵衛家(松田屋)一族の出荷は2059束(27796貫)、金額は1728両であったが、次に多く出荷したのは根雨近藤家、更に大宮・生山の段塚家、大 宮の青砥孫左衛門(福市尾)、黒坂の緒形、法導寺の音右衛門一族(伊田屋)、二部の足羽助八と続いている。

 

  たたらの労働者数は、安政5年に(1858)に近藤家が経営していたたたらは7鉄山であったが、その内労働者とその家族の氏名、出生地などが記入してある「役人別増減取調帳」をみると6鉄山の山内人口は合計658人、内職人は241人であった。

 

  従って当時郡内に30近くあったたたら全体の労働者は多くいたことが推定出来、更に村方からの出職者を入れると鉄山の人口扶養力は大きなものであった。

 

  幕末から明治元年にかけて、近藤家を除くたたらの調査で「たたら、鍛冶屋稼方書上帳」(近藤家蔵)をみると、明治元年奥日野分(奥日野とは下黒坂、下菅以 南の日南町)として立石村福来山、葉侶村篠原山以下20ヶ所のたたらが報告されているが、いずれも小鉄山で、稼業も年間数ヶ月の自給的たたらであり明治初 年には姿を消している。

 

  江戸期、たたらの経営について詳しく書き上げた名著に『鉄山必用記事』(鉄山秘書ともいわれる)がある。この著作は江府町宮市の鉄山師下原重仲が、天明4 年(1784)、47歳で書き上げたもので、重仲は「鉄山のことは昔より書き伝えたものはなく口伝のみである。これでは今後たたらが衰微するので、気のつ いたことを不要な紙に書き残したものである」としているが、村下、山子の大工(大鍛冶職人)などの古老から聞いた話も書き入れている。内容は金尾子神のこ と、たたら歌、砂鉄の採り方、炭の焼き方、炉の造り方など、たたらのことに関するすべてのことについて記述してあり、江戸期たたら経営、操業に関する解説 書としては最高のものである。

 

  しかし重仲は多くの資本を持つ鉄山師の力が強くなり、小鉄山師の経営は困難になったと嘆き、たたら経営をやめている。重仲は鉄山師として四代目とされているが、二男の恵助もたたらを江府町俣野の日名山で経営している。

 


近代(明治〜大正)

  明治維新を迎えたときは天保の大凶作などを経て、近藤家以外の大鉄山師は姿を消していたが、明治初期には通貨の改革、鉱物国有化の実施、また物価上昇と鉄類輸入の開始によって鉄市場は混乱を極めていた。

 

  近藤家は既に天保7年(1836)に大坂靭南通四丁目に自家産鉄販売の出店(鉄店)を置き、独自の販売網を確保して鉄を売り捌いていた。また出店の支配人は明治 になっても年に1~2回は東海・東山・北陸道中筋にある鉄の仲買人を訪問して鉄を売っている。また当時国内外の情報に乏しかった根雨本店には、大阪出店か ら数日ごとに手紙を送り、これがまた本店の判断を容易に促すことになった。

 

  明治15年となると維新以来発行してきた不換紙幣の回収により全国的にデフレ傾向となり、明治17年には10年と比較して郡内たたら数は25ヶ所(自給的 小鉄山師を含む)から18ヶ所に減少、砂鉄採取高は2万駄(60万貫)減少、郡内産鉄販売総価格も13.6万円から僅か5~6万円に減った。この不況に対 して、安永8年(1779)からほぼ順調にたたら経営を放棄するかどうかの岐路に立たされる。

 

  そこで喜八郎は、古来からのたたらの炉生産は残し、大鍛冶部門に蒸汽機関と蒸汽鎚の導入で合理化を図る決断をして溝口二部の福岡に新工場をつくり、明治 21年から操業を開始する。この工場は順調に従来のたたら錬鉄部門の生産量の数倍の成績をあげ、やがて大正期には近藤家全体の6たたらが生産した鉄の 81%を集めて錬鉄とする主力工場となった。

 

  明治20年代中頃には、輸入鉄が和鉄の半額の価格で多量に出回って来たので、たたら製品には刃物、造船資材などに限定され始める。しかしこの頃から軍部、特に海軍からの注文が多くなり、出雲の鉄山師と共同で呉、横須賀の工廠其他に納品が多くなる。

 

  大正期に入ると、第一次大戦のはじまりで鉄の需要が高まり、鉄価は急上昇するが、大正8年の大戦の終わりとともに鉄価は3分の1に急落し、近藤家はたたら を休業すると共に、最後まで残した谷中山(山上)、新屋山(多里)、吉鈩山(大宮)も大正10年には廃業とし、ここに143年間途絶えることのなかったた たら稼業を終わり、以後は特殊鋼を英国、スウェーデンなどから輸入し「旭ハガネ」と称して販売することになる。なお、昭和3年には、新しく東京神田に東京 支店をつくり、輸入鉄の販売をはじめる。

 


略年表

5世紀初頭   ■日南町印賀の横穴古墳より刀・槍出土。原料鉄 は大陸系の輸入鉄と分析される。

6世紀後半   ■日本で砂鉄製錬による鉄の生産始まる。

古代    ■孝霊天皇の鬼退治伝説

   

平安時代   ■スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治伝説

        鬼やヤマタノオロチは、タタラ師をあらわすと いわれている。

        ■伯耆(大原)安綱とその一門による作刀。「童子切」ほか名刀を今日に残す。

鎌倉時代   ■伯耆会見郡古鍛冶の始祖大原安綱、反りのある日本刀を創始(源氏の宝剣「鬼切」)

1254年   ■古都文次郎信賢、土着して日南町印賀阿太上山で印賀鋼をつくる(日野郡史)

1333年   ■元弘の乱船上山の戦い

        隠岐島を脱した後醍醐天皇が挙兵を行った最初の戦い。この後に鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立する。

室町時代  

1484年   ■日野の鉄山を支配し、鉄の技術集団であった蜂塚氏が江美城を築城。

1565年       ■蜂塚氏、毛利・尼子の戦により滅亡。江美城落城。

江戸時代  

1600年

慶長5年        ■尼子氏の家臣木下家が日南町阿毘縁の大谷山、笠木の谷中山で鉄作りを開始、

                          1615年には法橋家とともに山分けをして鉄山師となる。

1638年    ■松平直正が松江藩主となり参勤交代が行われるようになり、そのルートが出雲街道と呼ばれるようになった。

         日野郡産鉄も運ばれた。

1694年    ■日野郡鉄山を鳥取藩の御手山とし、鉄奉行、鉄目付を置く。(~元禄11年8月)

1779年        ■近藤家(根雨)日野郡山上村笠木の谷中でたたら製鉄を始める。

1784年        ■日野郡宮市村の下原重仲が「鉄山必用記事」を著す。

1800年        ■鳥取藩による鉄山支援策として、海路為替回漕仕法が始まる。日野郡産鉄は米子港から全国へ流通する。

                  鉄山融通会所

1836年   ■天保7年、近藤家が大坂靭南通四丁目に自家産鉄販売の出店(鉄店)を開いた

明治時代    

1883年        ■日野川水系の根雨-車尾間に15隻の川船が通い鉄も運送する。(~明治19年)   

1893年        ■会見郡米子町の有志、日野川流域の砂鉄採取停止の陳情書を提出する。

                      長い年月をかけ、たたらで流す砂が堆積して島々が作られ弓ヶ浜半島になったと云われている。    

大正時代

1919年        ■第一次世界大戦講和により、鉄価が三分の一に下落する。 

1921年        ■近藤家(根雨)経営のたたらがすべて廃業となる。各鉄山は製炭所となる。  

昭和時代

1940年        ■近藤家、根雨公会堂を建築し根雨町へ寄贈。