伯耆国、鳥取県の奥日野地域で、今から約100年前まで営まれ続けた日本古来の製鉄法、それが「たたら製鉄」です。花崗岩などの砂礫の中にわずかに含まれる砂鉄(酸化鉄)を原料とし、木炭とともに炉に投入して燃焼させ、高温の炉内で一酸化炭素を発生させることによって酸化鉄を還元して鉄を取り出すという方法で、「たたら製鉄」は古墳時代後期(6世紀頃)から始められたと考えられています。
memo ★文明を築くもととなった鉄
地球の全質量の3分の1以上を占める鉄。重い鉄の多くは地核に沈み込んでいますが、地上にある鉄は「酸化鉄」で、人類はその酸化鉄を還元、つまり結合している酸素を一酸化炭素によって奪い取らせる方法で鉄を作り、今日の文明を築いてきました。
奥日野地域や奥出雲地域など中国山地一帯では良質の砂鉄が採れ、豊かな森林に恵まれていたことから、古くより刃物に適した良質の鋼を生産し、特に幕末から明治中期にかけては日本の鉄生産の殆どを担って国の近代化を支えましたが、やがて鉄鉱石とコークスを用いる西洋の近代製鉄法にその座を譲り、大正時代となってその長い歴史を閉じることとなりました。
memo ★たたらを追いやった近代製鉄法
原料と燃料を確保するために、砂礫にほんのわずかに含まれる砂鉄を採取し、山の木を伐採して木炭にしなければならない「たたら」に対して、純度の高い鉄鉱石と、即燃料として使える石炭・コークスを露天掘りして用いる西洋の製鉄法では、うんと安価に鉄が作れます。
3)鉄穴流しで地形が変わり、流れ出た砂が弓ヶ浜を形成
山肌を削って砂礫を水路に流す「鉄穴流し」という方法(比重選鉱法)で砂鉄の採取を行い、その結果出された大量の廃砂は、田畑の造成に使われたり、また日野川が下流域に運んで弓ヶ浜半島や米子市周辺の土地の形成にも大きく影響したといわれ、日頃何気なく見ている景色の中に今でもその痕跡を各所に見ることができます。
memo 夏場は水を田んぼに引かなければならず、鉄穴流しは秋の彼岸から春の彼岸までを主に行われました。
memo ある試算によれば、鉄穴流しによって日野川が流した土砂の量は2億5千万立方メートルとも言われ、これは現在の米子市の全面積に対して1.9メートルの高さに相当します。
燃料とする木炭は、伐採した樹木を30年前後かけて再生させながら利用し、たたらは自然との共生をはかりながら綿々と営まれた点で、世界の他の鉱工業にはない特長があります。森林再生のサイクルにあわせて「たたら場(山内)」が点々と移動したことから、奥日野地域では200とも300とも言われる場所に、 今でもたたら場の遺跡を見ることができます。
memo ★森林保全・自然との共生にも配慮
かさばる木炭を遠方から運ぶとコストが掛かりすぎ、採算がとれなくなるため、近場の木を伐採し尽くして木炭が生産できなくなると、たたら場を移動させました。
memo ★日野郡内はたたら遺跡の宝庫
その目印は「カナクソ」。平成29年度末時点で日野郡内に約420ヶ所のたたら跡が確認されています。
江戸中期以降のたたらでは、1回の操業(一代)で、砂鉄と木炭をそれぞれ10数トンずつも使いました。砂鉄を採取する鉄穴流しや炭焼きなどの作業に多くの人手を要したのはもちろん、鍛冶場での加工、原料や製品などの運搬、川砂の浚渫などの土木工事、職人の扶持となる米の生産など、関連した幅広い仕事を必要とする巨大産業で、まさに地域の基幹産業としてありました。
memo 日本の人口が約4千万人くらいだった明治中期、日野郡の人口はなんと約3万5千人、その内2万人ほどが「たたら」に関連した仕事をしていたとも言われています。
そのために、資金力と広大な森林を保有する鉄山師が存在し、江戸時代中期から幕末にかけては奥日野地域に大小20〜30の鉄山師が割拠。彼らは地域政経のリーダーとなって地域全体を統轄して「たたら」を営みましたが、時代の流れの中で幾多の盛衰があり、明治以降は経営手腕に優れた根雨の近藤家(下備後屋)に集約されました。
memo 当初より鉄山師(鉄師)を9家と定め、その庇護を基本として鉄山政策を執った松江藩に対し、鳥取藩は制約なく誰でも製鉄業を営むことを許しました。しかし反面、経営が行き詰まっても救済の措置などは執られませんでした。
memo 江戸時代においては日野町では緒形家や手島家(松田屋)が大鉄山師としてよく知られています。
memo 近藤家(下備後屋)は安永8年に製鉄業に参入。天保年間には全国に向けた直販店を大阪に出店、明治21年には五代目当主・喜八郎が、旧溝口町福岡に蒸気機関などを導入した新工場を建設するなど合理的経営に努めました。
奥日野のたたら産業は、多くの鉄を必要とした日本の近代化を支え、日清・日露戦争での特需などにより、明治25年頃に近藤家の鉄生産量はピークとなりましたが、八幡製鉄所が本格稼働を始めると衰退を余儀なくされ、大正10年にはすべての「たたら」が終焉のときを迎えました。その時に向けて近藤家は、製炭業や木酢を活用した化学工場の建設、特殊鋼の販売などによって、たたら廃業に「多角化経営」で対応。たたら従事者をさほど離散させることなく、見事にリスク分散“軟着陸”を果たしました。
memo 近藤家六代目当主・喜兵衛は製炭業を推進し、七代目当主・寿一郎は自ら研究・実験を重ねて近藤木材乾留工場を根雨地内(旧日野病院付近)に建設。さらに大阪堺市に進出して現協和発酵の元となる「近藤製薬工場」を創設しました。
再生力にすぐれた森林を上手に保全しつつ、ゆたかな水を有効に使って営まれた「たたら製鉄」は、地域の農村との共存関係の上に成り立ち、日本ならではの稲作の文化や精神風土、コミュニティの在り様に根ざした独特の産業システムであったとも言え、今後、社会や経済、文化など広範な学術分野においてその歴史的価値を検証していくことが求められています。
伯耆国たたら顕彰会は2008(H20)〜2009(H21)年に、日野町と日南町の商工会によって行われた「地域資源∞全国展開プロジェクト(中小企業庁)」の成果を引き継ぐべく2010(H22)年6月に発足し、以来さまざまな事業に取り組んでいます。