回鉄御趣向
●文化13(1816)年より文政6(1823)年の間、鳥取藩の肝入りで日野郡産鉄を江戸市場へ直送した。
回米方御用鉄山(海路為替回漕)
●寛政12(1800)年、回米奉行により日野郡産鉄を米子鉄問屋に集め、鉄買船に売り渡す方式がとられたが、地元では「御回米方御手掛り鉄山」と称えた。
返し切
●大炭となる雑木は、樹令30年位になると伐採するが、この時期は萌芽力が盛んで、切ってもまた再び成木となる。鉄山林ではこの萌芽を切り取ること(返し切)は禁止された。
返りこ証文
●山林・田畑・鉄穴などの資産売渡し証文に、代金を返済すれば、それら資産を返却する旨の記載がある証文。
抱子(かかえご)
●経営する鉄山と雇用契約を結び、賃銀・扶持米を受けている職人。
抱子人別
多い人別では、天保2(1831)年、日野郡上菅の持々滝鉄山(近藤家経営)で、鍛冶方は大工6人、左下5人、後吹13人、左手子10人、右手子12人、山子37人、鑪内で村下4人、炭焚1人、番子8人、小鉄洗い1人、合計97人という記録がある。
抱子放手形
●鉄山抱子を他の鉄山へ譲渡する承諾書で、条件として(一)他に宗門懸り(人別帳記載)がないこと、(一)素生(経歴・出生地など)に相違ないこと、(一)先銀借用の返済が終るか、または返済手当が出来ていること(本人支払不能のときは子孫が払うことを承諾する)。■鉄山にて抱人の放し手形と言う事、是も近年の事也。
懸り合い
●金銭の縺(もつ)れ,土地・境界などで紛争となること。
隔年流し
●奥日野では乏しい水を一年おきに譲り合って鉄穴流しをしたところもある。
懸切
●賃労働するとき、食事は自己持とすること。
欠間
●作業工程で欠員の出来た職場の作業を補う人。
貸米
●扶持米は4日ごとに、男は日に一升、女二合、子供のある女三合、子供二合の割りで貸す。 ●米貸日は竹貝を吹き知らせる。
過(貸し)上
●賃銀計算上、黒字で生活物資の買える状況。逆は喰負(くいおい)。
桂の木
●金屋子神が白鷺にのって奥非田(奥比田・現安来市)の桂の木の枝に羽を休めたと祭文にあり、神樹とされ、各鉄山の近辺に樹えられた。
家督・家徳
●家屋敷・田畑・山林・鉄穴などの資産。
鉄池(かなち)
●銑を急冷させる池。
鉄糞・鉄屎(カナクソ)
●鉄滓(てっさい)・のろとも言う。鑪では砂鉄を初めて爐内に入れてより、大抵三時間を経れば熔解し、鉄滓は爐前後両面の孔穴より自ら流出する。●鑪(製鉄)の際に出てくるカナクソは製錬滓・精錬滓(せいれんさい)。大鍛冶の作業で出てくるのは鍛冶滓(かじさい)。
金屋子神(かなやごしん)・鉄屋子神
●たたらの守り神で女神とされる。金屋子神祭日は10月初子の日。●近藤家でも信仰が篤く、床釣の可否など西比田金屋子神社宮司から神託を聞いて決めるなどした。
鋼造
●鉧を割り、破碎面を肉眼で見分け、硬度、含有量、品質の斉整をみて等級を決める職人。●大阪にも折屋と称する鋼造店があり、また近藤家では要請により地元から出店へも職人を派遣したが、明治中〜後期には山元各鉄山に5〜6人の職人をおき、殆ど地元で折入れするようになり、製品は12貫目入り木箱を菰包として出荷したが、種目は10〜20種にわけられ、最高の鋼は「極稀」とされた。
釜寸法
●砂鉄製錬爐の寸法のこと。鋼(鉧)押と銑押で異なる。
■鋼(鉧)押/長さ9尺4寸より一丈まで・幅3尺3寸より4寸まで・高さ2尺5寸より6寸まで。
銑押/長さ7尺5寸より8尺5寸まで・幅2尺8寸より3尺1寸まで・高さ3尺より3尺5寸まで。但し上記は足踏天秤の頃で明治20年代、水力による送風機が出来ると爐は高くなる。
釜土
●白粘土と赤粘土を配合し、熔融点の中庸を必要とする。一回の築爐に約1000貫を要する。■珪石の混淆して最も粘着性の多き粘土はよく烈火に耐える。
かま塗り(釜塗毛)
●早朝よりはじめ、夕方迄に終り、夜間はかまの内外に木を焚き乾燥させる。
からみ
●?の表面に付いている鉱滓。流動性の高いからみを造るため、操業のはじめ珪酸分の高い砂鉄の洗い滓を投入する。
川場
●河川に堆積している砂鉄の採取場。川に?川を掘り洗い流す。郡内342箇所。
川舟
●日野郡流域の鑪は、対岸との物資交流に各地の渡舟を利用したが、黒坂緒形家が矢戸〜根雨間に鉄穴舟を通わせたこともあった。●日野郡奥地の近藤家産鉄は、新見まで陸路、新見から高梁川の川舟で玉島まで送られ、また作州での産鉄は勝山経由で旭川の川舟で岡山まで送られた。●明治17年から19年の間は、根雨〜米子の車尾間に川舟が通い、多くの鉄荷を運んだ。
鉄穴(かんな)
●鉄穴師と称する人夫により、鶴嘴(ツルハシ)・打鍬・鋤などをもって山地(鉄穴)の土砂を崩壊させ、水を流して砂鉄を採取する。■元治元(1864)年、日野郡内に鉄穴数235箇所、明治9(1876)年に232箇所あり、合持も多かったが、やがて大鉄山師のもとに集積される。■郡内の鉄穴268箇所。
鉄穴懸開き
●鉄穴新設には、水を溜める堤、数キロメートルにわたる鉄穴井手、鉄穴崩し場の権利取得と造成、走り、足水、精洗場、小鉄置場、石ばね場、鉄穴師居小屋の造成、流し子手当など多くの労力と経費がかかる。■高額経費の例は明和6(1873)年、溝口庄村の緒形家鉄穴懸開き経費銀21貫120匁。
鉄穴借受議定
●文化6(1809)年、近藤家日野町横路八人合持鉄穴借受けの支払諸条件。
■借受期間を7年間とし、銀400匁。畑井手敷料一人二匁。井手懸り一町に二匁。鉄穴水先き通し料は、取小鉄の一割。走り一町に四匁。石ばね場料年間米五升。足水料は相対ぎめ。小鉄場床料・鉄穴師居小屋・雪隠敷地料として年間米一石。鉄穴師扶持米は当村の米を買うことなど。
鉄穴流し
●山口穴打場(崩し場)は、山ふくらかにして肥たるがよい。削立たるように険阻なところは底に石がある。期間は農民の透間稼で米作りの障りを避けて、秋の彼岸から春の彼岸までとする。
鉄穴師
●鉄穴流し作業人。流し子とも言う。●大鉄穴で山口穴打(崩し)に10人から15人、春分、水の強いときは20人も必要。精洗場で小鉄を取り上げる。「居士」は3〜4人。●鉄穴所有者と鉄穴師の利益配分は、採取した砂鉄の半分を流し子へ、後は持主へ与えるなど玄武の配分が多い。■防寒用足回り用品は甲掛(爪籠をはく前に踵を覆う布切れ)。草鞋。爪籠(足先に履く藁で編んだ、つっかけ様のもの)。はばき(いぐさなどで編んだ脚絆様のもの)。
鉄穴師頭勤方
●山替えや、宇戸替えは本小屋手代立会の下で差図をうける。●仕事は鉄穴口の見回りと井手懸り水の有無多少、池川の様子見。谷番の回り役を定める。鉄穴師賃銭の上下をきめる。山口穴打ち場頂上の石の処理。堤・池・樋の見分と池の樋穴の、のみの差し抜き。出水時取上砂鉄流出防止対策。落土に埋まった者の救出(早く水をはずし手で掘り出すこと。)
鉄穴遣い道具
●打鍬・斧鍬・釿鍬・熊手・鞴(道具直し用)・大小鍛鎚・木切など。
鍛鋼
●鉧中の鋼は炭素量が不同、または多すぎるので、小鋼塊を火窪で熱し、鍛錬して折曲げること数回、脆くも軟弱でもない品質の一定となる鋼にする。当地方で行わない。播州三木町では特にこの技術が発達し全国に出す。
切刃(きりは)
●小割鉄の厚さ四分の三位は、灼熱中にたがねで溝を切り、残りの四分の一は、冷却後鎚で割る。この令断面(切刃)は錬鉄の品質を鑑別するに極めて重要である。なお、割らぬ鉄を丸延と称する。
参考/切羽(きりは)
●鉄穴流しの際、土砂を掻き落とした断面のこと。●炭鉱や鉱山における採掘や坑道、掘進する坑内の現場、あるいはトンネルの掘削面のことを言う。
●また「せっぱ」と読むと、① 刀の鍔(つば)が、柄(つか)と鞘(さや)に接するところの両面に添える薄い金物。転じて②さしせまった困難。きわめて困難な時。■切羽詰まる。
木呂・気呂・喜呂
吹子から爐への送風管。竹を用い、先端に鉄の口金をつける。
■木呂穴の高さと本数
鋼(鉧)押/大平(爐の長側面)7寸〜7寸5分 内側5寸〜5.5寸 木呂20〜21本
銑押/大平5寸〜5.5寸 内側3寸〜3.7寸 木呂18〜19
■木呂竹/竹を截り揃えて節をぬき、皮をけずり捨て乾し上げ、澁粘で上を紙で三重にはり、葛かずらを二つ割にして巻く。
ぎんば
●平地が急に落込んだ縁。耶麻の斜面と平になった境界。
禁忌
●「たたら」の失敗を恐れ忌みきらうこと。■役人(鑪の働き人)は、子供の生まれた家に17日間は這入らぬ。産婦と同じ火で料理した食物は30日間は食べぬ。高殿内へ犬を入れない。?苧を持扱わぬ。こもり(鑪操業)の夜は、村下・炭坂の妻は鉄漿(御歯黒)をつけぬ。月次の障ある女は17日間鑪に入らぬ。産婦の夫は17日間鑪に入らぬ。産婦は33日間鑪に入らぬ。高殿のうちで四足の肉は煎焼しない。魚類も本床の炭で炒らぬこと。鑪の道具には?苧を用いない。鑪で桂・父撫の木は燃やさない。
銀詰
●鉄山稼業では諸仕入品など先銀(先払い)が慣例であるが、それ等の資金繰りの見込がたたぬこと。
喰負い
●支給の手間賃を越える米などの借入状態。■喰負の者は、余分の仕事をしてかえす。従わぬ者は立替銀を取立てた後、暇を出す。山子の喰負は生木伐賃の七割は手取、後三割は米の借入金に回す。
喰捨
●就労時の食事は扶持の一部として無料とする待遇。
組合稼・仲間稼
●数人共同の鉄山稼。諸仕入金と生産手段を他の鉄山師から借り受けて経営し、産鉄の何割かを渡す方式が多い。村方と鉄山師の共同経営もある。
来尾
●一定の期間。例えば秋から春の彼岸までの鉄穴流し。または前・後期の鑪操業期間。
下駄
●てらしのとき、一面火となるので、各自で拵えた下駄を用いる。
鉧(けら)
●鋼(鉧)押は砂鉄が還元されて、炭素を吸収する量を1〜1.5%位に留まるように加減して吹く。含炭量の少ない鉄塊は熔融熱度が高いので爐内で溶けずに塊状となる。これを鉧と称する。●操業二日目頃から鉧が次第に大きくなり、三日目には爐床全体に広がり、幅三尺・長さ八尺・厚さ一尺位の大鋼塊となる。
鉱滓・鉄糞・のろ
●洋式の熔鉱爐は熱風装置があるので、熔媒剤として石灰石を混入すると、鉱石中の珪酸分は石灰と化合して鉱滓隣、鉄分は全部回収されるが、たたらは温度が低いため、砂鉄中の珪酸は鉄と化合し鉱滓となり鉄分の損失となる。
鉱物国有化
●明治5(1872)年3月、「太政官日誌第26号」により、鉱物は地表(砂鉄など)、地底を問わず、政府の所有物である、との見解が示された。
氷目銑
●氷のような目合(じるいと表現される)の銑。爐の工合良好のとき氷目となるが、左下場で忽ち流れ、左下鉄の歩溜りが悪くなる。また地鉄からの精錬鉄の歩溜りは蜂目銑より悪い。
小鍛冶
●小割鉄の加工業者。■明治後期でみると、鍬鎌などの農業用具、包丁などの家庭用品、さらにかんざし、指輪、煙管などの注文生産と修理をする。代金は現金の他に古鉄・小炭・藁・卵・糠なども受け取った。小割鉄は江戸期より郡内の中小鉄山師より買い入れている。
小鉄(こがね)
●砂鉄・鉄砂のこと。また粉鉄のこと。
小鉄洗い
●並洗で納められる砂鉄を洗いなおして純度を高める職人。
■松・杉の厚板で樋をつくり(長さ三間・横三尺・深さ一尺)精洗する。一回に140〜150貫、一日に10回位。
小鉄枡
●小鉄の計測には各地方、各鉄山師ごとに異なる枡を用い、嘉永6(1853)年には段塚枡以下緒形・水尻・二部谷・備中など14通りの枡があった。■段塚枡は30貫、備中枡は20貫入り。 ■方一尺1〜2寸、深さ6〜7寸の底無し枡、これを二杯で一駄とする。
心付米
●大鍛冶職人が定められた仕事を満たすと褒章として米つき五升、120吹に五升、160吹に五升、計一斗五升与えた。
越し炭
●買い受けた山で生産した炭を、他の山の鑪へ運ぶこと。その山を懸山とも言う。
小炭
●雑木の枝条を積んで燃やし、頃を見計らって土砂をかけて消火する。生木から一割とれる。大鍛冶の左下鉄・錬鉄に使用。■消費量は錬鉄ひと吹に九合から一升。■明治中〜後期、近藤家各鉄山では小割鉄一束(13.5貫目)に三升内外消費しているが、年間200石も使う鉄山もあった。■炭籠に入れて背負って帰るが、出火することがあるのでその夜は蔵入れしない。
小炭焼
■細木でも根伐りしない。槙の木の枝で割木となるものは樵(きこ)らぬ。山子は大炭の他、小炭も月一斗五升焼くこと。■よく焼く者は二日役に鍛冶屋一軒遣いは焼く。■よい季節は春と秋、老人・若年・子供も焼きに行かせること。
小炭枡
■直径・高さとも二尺五寸の胴返し籠に一杯を一升とする。■計量のため、籠の側面に10分の1ずつの切れ目(一合穴)をつける。
小炭山
●小炭山場割は山配するが、半月も焼ける所を選ぶ。若樹山がよく、松・栗・栃などは至極上。
小炭頭勤方
●小炭頭は山配の助役。●何役に限らず、休番の者を山配と打合せ小炭焼に行かせる。吹雪、大積雪のときは、先立って山に行き、若年、老人には火を焚付けてやる。梅雨頃は雨天に木栫えして晴天に焼かせる。
五人組
●大工が組親となり、山内各戸に五人組をつくらせ、欠落人(退身)などの監視にあたらせた。
碁盤帳
●山方職人の出勤を見届けるため、山内支配人は毎朝山内を見回り、基盤目の帳面に記入。仕業の終り頃再び回り、仕業に出たふりをして休んだ者へは米貸しを五合へらす。大鍛冶は拾い出し帳を使用。
小舟
●爐床を乾燥させるための地下構造物。大舟をはさんで左右二つつくる。
小回り
●雑用係。
小前百姓
●高持、徳人に対する平百姓。鉄穴流し、川砂採取は小前百姓の重要な収入源であった。
駒樋
●鉄穴井手水を通すとき、谷などの低地を越すためにかける樋。一間位の竹の輪でしめた桶様のものを数本つなぐ。松の木の中を刳った駒がえりもある。釣駒または、はぎ樋とも言う。
籠り
●ひと代の爐の操業初期。■こもり小鉄は定まりがあり、釜の内、空虚なところへ焼(く)べて銑を吹き涌かすので最初が大切。川場小鉄を洗いあげて使用。
籠り小屋
●鉄穴流し場の鉄穴師居小屋。
頃鋼
●元来、人頭大の鋼塊。
ころばせ焼
●下灰のとき、役木を本床の上であちこち転ばせて焼くこと。
小割鉄
●歩・銑を地鉄として大鍛冶で錬鉄とした製品で、小鍛冶での加工用に出荷。■近藤家での生産種類は明治24年で、小割・丸延・鉋丁地・さく地・板鉄などに鎚地・煉床(床地)を加えて10種類、更に溝口福岡山の錬鉄4種類を入れて14種類あった。■最も薄くて軽い割鉄は、長さ2尺2〜3寸まで、幅3寸5〜7分位至極上、重さ700匁通例、一束に19〜20本入が上。
近藤大阪鉄店・大阪出店
●根雨近藤家が山元産鉄を売り捌くため、天保7(1836)年、大阪西区うつぼ南通り四丁目に出店(直販店)を置いた。■店員は飯焚を含め10人前後。次第に商圏を広げ、他鉄山師の産鉄まで受託販売した。■各地の商内情報と共に社会情勢も数日ごとに本店に知らせたが、山元鉄山、根雨本店の諸経費のほとんどは出店からの送金でまかなった。
近藤製薬工場
●大正(1916)年、山元山林生木より、木酸を乾溜。後に大阪堺に製薬工場をつくり、合成醋酸を製造した。これが後の日本合成化学となる。