奥日野の鉄山師たち

日本刀を創始したと伝わる「伯耆安綱」の伝承や、東大寺の封物として鉄を拠出した記録などから、奥日野では古くからたたら製鉄が盛んに行われ、製鉄に携わりそれを取り仕切る人々、鉄山師を多数輩出してきました。古くは鎌倉時代に、古都文次郎信賢の名があり、江戸時代ともなると相当の資力を有する経営者が創業し、江戸時代〜明治初頭、好況期には郡内には大小20〜30の鉄山師が群雄割拠して、阿毘縁の木下家、黒坂の緒形家、生山の段塚家、大宮の段塚家、さらに根雨の手嶋家(松田屋)など、有力な鉄山師は地域の政経の中心となっていました。

 

当地ではたたら、大鍛治の打込(開業))を願うときは「請願書」、廃業は「揚願書」、他領での打込は「出職願書」で許可され、運上銀も産鉄量に関係なく、たたらは銀120匁、大鍛冶同 60匁で済み、簡単に事業に参入できたことは幸いでしたが、激しい自由競争の下、好不況の波の中で次々と淘汰されることになりました。

幕末以降は、1700年代に備後国(広島県東部)から根雨に移住した商人系・近藤家(備後屋)の分家、下備後屋に集約されることとなリました。

これら鉄山師たちについては、激しい興亡の中で文書なども散逸し、それらの詳しい記録は残されていませんが、近藤家に残された史料から、江戸時代の文化〜文政期、鳥取藩による「江戸回鉄御趣向」期間中における日野郡内の鉄山師の実態は、ある程度知ることができます。

江戸時代以前の記録

●太平記によると、806年頃(大同年間)、伯耆会見郡古鍛冶の始祖大原安綱が、日本刀を創始したと記されています。他、異論もありますが伯耆国各地に伝承が残されており、この頃にはたたら製鉄も盛んに行われ、刀の素材となる鋼も生産されていたものと推察されます。※伯耆安綱については詳細、コチラ

 

●大正15年(1926)年に刊行された『日野郡史』では、「延喜式主計帳伯耆国貢輸中、鍬鉄あるは主として本郡産ならん。」さらに「地方の諺(ことわざ)として今に残れる「百日の照りを見て野鑪をうつ。」といへる野鑪(のだたら)の跡、太古以来のもの本郡全面にわたり。所々に大鉄塊の放棄せられたるものゝ地上に露出せるもの等頗(すこぶ)る多く…」と紹介し、その起源の古さに言及しています。※延喜式(えんぎしき)は927年に完成

●1073(延久5年)には伯耆から東大寺封物として、鉄計1140 挺を出したとの記録もあります。(平安遺文)

●またこの頃、藤原氏一族が伯耆に荘園を開き「金持党」を名乗っていますが、「金」とはつまり「鉄」のこと、製鉄もいよいよ盛んになって、後々この鉄を巡って覇権争いも起こりました。

●1254(建長6年)には、京都北面の武士・古都文次郎信賢が土着して、日南町印賀阿太上山(あたあげやま)で印賀鋼をつくったと「日野郡史」にあり、「印賀鋼」の名は優れた品質で全国に知られることになりました。

 

伯耆国には日南町山上の大笹奥新田(室町期)、大山赤坂遺跡(平安期) など、古いたたら遺跡が多数散見されますが、古いたたら場の上に新しいたたら場が築かれることが多く、より古い遺跡を発掘するのは難しいのが実情です。

 

江戸時代の記録

●1600(慶長5年)には尼子氏の家臣、木下家が日南町阿毘縁大谷山、谷中山(たんなかやま)で鉄作りを開始。1615年(元和元年)には木下家と法橋家とともに山分けをして本格的に鉄山経営を始めました。

●1635(寛永12年) 、黒坂緒方家が創業します。(日野郡誌)

●1694(元禄7年)、鳥取藩は日野郡鉄山を藩の御手山(直営)とし、鉄奉行、鉄目付を置きましたが上手く機能せず、後に廃止せざるを得ないこととなりました。※詳細はコチラ

●享保20年(1735)〜 延享2年(1745)年頃、備後国(広島県東部)から根雨に移住した商人系・近藤本家「備後屋」の元祖伝兵衛の孫、彦四郎が分家して、現在地に「下備後屋」の屋号で独立。安永8年(1779)には、日野郡(日南町)山上村笠木の谷中(たんなか)で鉄山を始めました。

 


回鉄期間中の地元鉄山師の動向

この回鉄期間中は近藤家が地元鉄山師の頭取を務めたため、その文書から他の年代に見られない、かなり詳しい鉄山師全体の動向の記録が残されています。

大きな鉄山師は複数のたたら場を構え、製鉄のほか大鍛冶を行い、小さなものは鍛治のみ、あるいは稼働が少ないなどその生産規模や経営実態はさまざまでした。そのため郡内全鉄山師を「回鉄趣向」に組み入れる事は、特に生産高が不安定であった中小鉄山師に対しては無理であったと考えられます。

 

文化文政期、鉄山師数は30名前後

●文化13年(1816)末には、回鉄参加鉄山師14名。

●文政2年(1819)3月、米子鉄問屋三郎兵衛との相対売買願書の連署には20名。(この中には回鉄に参加しなかった阿毘縁木下家系の大松田屋彦兵衛も含まれる)

●文政元年より同4年(1821)11月までの3年間に産鉄御改めを受けた鉄山師は18名。

 

しかし近藤家史料によるとこの期間を通して、回鉄にも参加せず、また回鉄も受けなかった鉄山師が、下原重仲の子孫、黒坂村恵助(江府町俣野日名山鉄山師)以下13名。しかもこれらすべての鉄山師間にはかなり産鉄量の差が見られ、文化13年(1816)12月に鉄山師14名中、回鉄量が最大であったのは松田屋(手嶋)2家の31.8%、これに備後屋2家、段塚3家、緒形家を加えると全体の91.7%を占めていますが、回鉄量の最も少ない鉄山師は僅かに0.2%にすぎません。

 

●一方近藤家諸文書から鉄山師の人数をみると、文化13年(1816)から文政6年(1823)の間は、実数39人(日南町/27人・日野町/11人・溝口町/1人)となっています。

また同期間内の鉄山数は、その各年内ごとの稼業数を合計すると199山(内、大鍛治のみの稼業は9軒)で、これらの鉄山・大鍛治がすべて年間通して稼業したとは考えられませんが、一年間を平均すると稼業鉄山数は28.4となります。

 

参考/明治元年(1868)の鉄山師数は21名

郡内で、同時期すべての鉄山師の生産活動を網羅する資料は近藤家にただ1例、明治元年鉄荷物を鉄類預所から境鉄山融通会所に送るための基礎調査があるのみです。時代は異なりますが、これをもって文化文政期の大小鉄山師の生産規模と比較、参考としてみます。

 

明治元年(1868)の鉄山師総数は21名。内鈩稼業のみ13名、鈩に大鈑冶を併設するもの3名、大鍛治のみ5名となっています。

 

●年間の小割鉄生産高

近藤家経営6鉄山の付属鈑冶8軒では合計10,295束(一大鈑冶平均1,287束)

近藤家以外の大鈑冶8軒では合計で5,854束(平均732束)、

鈑冶1軒当りで最高1,202束、

最低82束と可成りの差が見られる。

●近藤以外の8大鈑冶の稼業期間

1ヵ月のみ/1軒、6ヵ月間/1軒、年間通しての稼業/6軒

●近藤家を除く郡内鉄山師15名の年間銑鉧湧荷合計は約25万貫

●これらの稼業(吹立)期間

1ヵ月のみ/3、2ヵ月のみ/4、3ヵ月/1、6ヵ月/2、

年間通しての吹立/4、当年吹立せず/1